昭和50年06月27日 朝の御理解



 御理解 第8節
 「子供の中にくずの子があれば、それがかわいいのが親の心じゃ。不信心者ほど神は  かわいい。信心しておかげを受けてくれよ。」

 不信心者ほど神は可愛い。その不信心者が信心を頂く様になりましたら、神様の可愛いという思いとおかげとを、一身に集めて行く事が出来る。私はこう思います。まぁいっぱしの信心者と思うて居る人達が、本当のおかげが受けられない。自分は信心を云うならば毎日お参りをして居る。信心の心が篤いとそういう風に自負しておる人達。それは成程おかげは頂きますけども、特別におかげを頂くと言う事はないのです。
 やはり不信心者ほどと云うことです。不信心者いわゆる本当に不信心者と云うか、愈々屑の子と云うか、詰まらぬ者が詰まる様になった時。例えばこれは私の例で申しますならば、まぁ一っぱしの信心も大体信心が出来ておった様に思うておった。商売でも誰よりも商売が上手だと自信を持っておった。そういう信心を頂いておるにも拘らず、まぁ不如意なことが続いて来た。
 裸で外地から引き揚げて来なければならないこともそうであったし、帰った途端に次々と肉親の者を亡くして行くという様な、悲しい事になって行ったし。それでも外に道を知りませんから、矢張り商売で立つより他にないから、商売をさせて頂いて、一時はやはり腕が、商売の道と云うものはやっぱり小さい小学校を卒業するとすぐ、商売の稽古をさせて頂いとるから、やっぱりそういう意味で自信を持って居ったのも束の間で、順調に行くかの様に見えたけれども。
 その時、闇の繊維の商売をしておりましたから、タオル一筋でも自分の力で売れると云うことの出来ない事の自覚が出来た。今迄自分は、云うならば素晴らしい商売の上手な商売人と思うて居ったのがです、自分には愈々力が無い事が分かってきた。そこでです縋るより外はない。私はその点がです不信心者ほどと云うか、子供の中に屑の子があればと仰る、その屑の子の自覚と言うものが出来た時だと思います。出来ると思うておったのが出来ない出来なくなった。
 神様のおかげを頂かなければ、自分は何一つする事も出来ない自分であるという、ギリギリの自分と云うものが空しゅうなって来た。なくなってきた。そこに屑の子の自覚、そううい屑の子の自覚が出来た所から、特別な強力な神様が可愛いと思召す心が私の上に現れてきた。信心しておかげを受けてくれよと云う、本当の意味での信心になってきた。そこから、誰よりもおかげの受けられる場と云うか、おかげの受けられる状態が、段々出来てきたと思うのです。
 だからいっぱしの信心をしとると、自分が思うとる間はまだ本当の大きなおかげにはならんです。本当にタオル一本でもです自分の才覚とか、自分では商才と思っておった商才なんかも、実は当てになるもんではないのだと気付かせて貰うて、いよいよ自分の無力さ加減と言うものが分かった時点が、屑の子の自覚に立った時だと思うです。そこで屑の子の自覚の立たせて頂いて。
 本当の意味に於いての信心を目指させて貰うて、おかげを頂くようになったら、どう言う事に私が心の状態、同時に形に現れてくるおかげになって来たかと言う事でございます。先日私はこう言う事は、合楽では御発度になっているのです。信者同志例えば金の貸し借りをしたり。信者同志まぁ例えて云うならば、むつやと云う呉服屋があります。信者さんの誰々さん方に結婚式があるげなけんで、売りに行こうてんなんてんて言う様な事を止めれて、私が言いました。
 信者同志だから、あちらが難儀しちゃるごたるから、この金使うときなさいと云うなら別です。又は折角買うならば、呉服ものでも折角買うならば、御信者さんから買わせて貰おうと云うのならばです、こりゃ別です。それは本当に有難い事です。けれども信心友達じゃからあそこに売りに行こうとか、信心友達で金の貸し借りは絶対いけない。これでおかげ受けた試しがなかです合楽では。
 だから一寸お金貸して呉れと云われた時には、必ず親先生にお取次頂いて来なさったかと云わなきゃ貸すなと、私が云うてるんです。所が先日から或方同志が心易い同志で、心易い紛れに、まとまった金を貸した訳です。所がその金を返さない訳です。それでここでお届けがありました。本当に今頃お届けしては何ですけれども、実は誰々さんからこうこうで、御用立てしておりますと、そういう時どうしてお取次頂いて貸すなら貸さじゃったかと、私が申しましたけれども、後の祭りでございます。
 それはお繰合わせを頂くより外にはないねと。何かあの人はそげな所があるもんね、ちっとはズルかところの割り切ってから、人の物も我物と云うところがあるけんで、実はあそこの所が改まっておかげ頂かにゃいかんねと。兎に角相手がお繰合わせ頂かなければ出来る事じゃないから、お繰合わせ願っとこうと云うて、私が申しました事でございました。その時分にここの指出の久保山さんが頂かれた御教えに、本当に有難い御教えがあります。奉る道と言う事を頂かれた。
 奉る道とはどう言う事でしょうかと言う事でしたから、私その事を御神意を頂いた時に、ああ素晴らしいなぁもう金光様の御信心はこれ一本で行きゃよいなと思った位でした。信心生活とか本当の信心と云うのは一切を奉る。一切を自分の物ではないと分かる事です。この命でもこの健康でもです。自分の体でもなからなければ、自分の命じゃないです。此処に百万なら百万と云う財産を持っておっても。
 それは神様の御物なんです。そこで私が百万なら百万持っておっても、それは神様の御物だとして神様に奉る。自分の体も神様の奉っておる。その時分そのお話した事でしたけれども、久保山さん、毎朝こうしてお参りになる。それは毎日毎日、自分の体をお供えに来なさるのと同じ事ですよと言うた。自分の体を御神前にお供えに来るとです。そして御祈念をさして貰い、有難いお話を頂いて、またそのお下がりを頂いて帰るのです。この体をお供えしたものを、一遍お下がりを頂いて帰るのです。
 ですからこれから畑へ出らして頂こうが、御飯を炊かせて頂こうが、神様の命をこの体を、云うならばお下がりを頂いて御用に使うて頂いておる事になるのですから、これは素晴らしいことですよ。ここん所の実行が出来たら私と云う我がない。お金を使わせて頂くでも、奉る道ですから、一遍神様に奉ってしまってある、この家蔵財産一切を奉ってある。それを必要な時にお願いをして、お下がりを頂くと云う様な生き方になったら、云うなら怪我過ちがなかろうと、私が申しました。
 自分のごと思うとるけん、なら使うて下さいと貸してある。ですからいくら相手が、どうも云いなさらんでん、それがね何時までも返さずに済みませんか何か云やですよ、まだ心がちっとは治まる訳なんです。所が会うたっちゃ知らん顔して、何ヵ月経っても放うからかしたごとしとりなさるけん、それでやっぱりモヤモヤする訳ですよ。けれどもそこに自分の物ではない、神様にお供えしておるんだ、まだお下がりが頂けんのだと思うたら、何とか思い返しもつきゃせんか。
 お供えしとるとじゃけん、必ず一遍はお下がりを頂くがと私が申しました。私は信心生活とはそれだと思うです。信心生活とは確かに奉る道なんです。これがです今日私が申しますように、ギリギリ我自覚がです、自分の物とはなに一つとてないとか、自分で今迄は出来ると思うとったけれども、自分で出来る事はないんだ。私の永年商売の稽古をさして頂いて、自分は他の事は出来んばってん、商才はあると、自分で自信を持っておった。その自信がもろくも崩れさった時に。
 自分の無力さというものが分かった時に、初めて屑の子の自覚が出来た。それからと云うものは一切が奉る道と言う様な生き方で、今日までおかげを頂いて来た。愈々屑の子である事がです、自覚が出来た所に本当に可愛いものじゃと云う、神様の特別の可愛い。例えばね、私はそのお取次をさして頂いた時に、ああ自分なここん所がおかげ頂いとるなあと思ったんです。
 その方がそういうお取次を願われた時にです、あの人はそげな所があるもんのち、人の物でん我がもんでん、いっちょん気にせんごたる所、いうならドライな所があるもんのち。あの人はそうにゃ改まっておかげ頂かにゃ出来んけれどもと云いながら、払われんでおるというその人を、非常に可愛いと思いましたです私は。払って貰わんと云うて腹を立てている人よりもです、払われないと云う、払おうと思うとるけど払われないその人の上に、私の心が非常に動いた時にです。
 私はこういう心が親の心じゃなかろうかと思います。私が商売をしておる時分に、もうそれこそ無メクラです、息子がちっとばかりどまぐれちから、私共にも酒の借金を作っておるわけです。親には云うちゃ呉れるな、親には云うちゃ呉れるなと云うけん、辛抱しとったけれども、どげん言うたっちゃ払わんから、親にそのことを云うたです。そしたらどうした奴じゃか、あげな奴は知らぬんばのとは、その親は言わっしゃらじゃったです。私がちびっとずつなっとん払わして貰うけん。
 また借りに来た時には貸してやって呉れと言わっしゃったです。私はその事を、今日ひょっと思い出させて頂いてね、これが親の情だと思うですね。息子のその金は私が少しずつなっとん払おうち、そして又飲みに行く時には飲ませてやって呉れち。ちっと中毒の様な風になっとりましたからね、それが親の情です。屑の子程可愛いと云うのはそうです。教祖様は私共の教えの中に、親子の情をもって色々な角度からお説きになっておられます。どうした奴じゃかのあん奴ばっかりは。
 それが他人の考え方です。けどもそれが自分の子供であったら、どうした奴じゃかのと云い乍らも、心では可愛ゆうしてたまらんです。それはお前の様な奴は親でもない子でもないと言うて勘当した子でもです、親はこれが忘れられる筈は無いです。それこそ親と云う字は木の上に立って見ると書いてある。それこそ勘当でもした息子がです、さあ雨が降る、風が吹くという様な時には、今頃は何処でどうしよるじゃろうかと思うのが親です。もう他人は忘れてしもうとる。
 けども親はいくら勘当したっちゃ忘れられるもんじゃない。それこそ表の戸がガタッと云ったっちゃ、ひょっとしたら、あれが帰って来たとじゃなかろうかと思うのが親です。そういう親心です。私は思うのにお道の信心は、仏教で慈悲を説き、キリスト教は愛を説くけれども、お道の信心は第一恩に報いると言う事を説きますね。報恩と言う事を同時に私は、お道の信心の真と云うたら何処にあるかと云うと、私共がね恩に報いる心、そういう心を育てて行く内に、何が育って来るかと云うと神心です。
 だから金光教の信心はと問われたら、神心を作って行く事にあるのです。ですから、その神心をです、神心を身につけて行くという前提として、私は親心を身につけて行かねばいけないと思うですね。自分の所に使うておる店員達の上にでも、矢張り神心とまでは行かんでも、親心位は段々使える様にならなければいけません。例えば私が此処でです、皆さんから親先生と言われる資格と言うのはです、人がとやこう言おうが言うまいが、黙って借金して、私に云うておらんその人の事でもです。
 その人がふびんに思えると云う心は、すでに私は親心だと思うです。どうした奴じゃかのと言い乍らも、払えぬその人が、とにかく可愛いという心が起こる様な感じがするです。信心とは、そういう神心を目指すことの前提として、親心が使える様な、それはだれかれの上にです。親切とは親が子を思う切なる心と言われます。親切とは親が子を思う切なる心を親切と云うのです。ですから私共が親切な思いと云うものを掛ける時に、それはもう親心であります。
 それが、誰彼の上にも、それが屑の子と言われる人達の上にでも、そういう心が使われて行く様な稽古をさせて頂かなければいけません。成程この方の道は親切一つで、人が助かると仰る。自分の好きなつだけに親切を使うのは、あれはほんな親切じゃありません。親が子を思う切なる心で、それこそ勘当しとる子供にでもです、使わにゃ居られないその切なる心が親切です。
 人が相手にしない様な人でもです、矢張り親心でその人の事が思える様な心がです、いつの間にか育って行くと言う所に、私は信心があると思うのです。信心しておかげを受けて呉れよと言う事はです。ギリギリ自分自身の屑の子の自覚、何にもできない私。本当に神様の御厄介者と云う自覚が出来た所からです、神様が屑の子程可愛いと云う思いの念が、こちらに集まって来る。
 その屑の子であった例えば私がです。神様のおかげを頂かなければ出来る事ではないと云う、一切が奉る道と言った様な信心を、段々体得させて貰うて、神様のおかげでさせて貰い、神様のおかげでなさして貰うと云う様な生き方が身に付いて来た時、云うなら信心が分かって来た時に、神様はそこには限りないおかげを約束して下さり、限りないおかげが頂けれる。その心の状態と云うものをです、私が自分の心を詳に分けて見るとです、成程人が相手にしない様な人に対して。
 親切が使えれる様に、段々なって来ておる自分、人が相手にしない、どうした奴じゃろうかと云う人の上にでも、親心であろうかと云う様な心が使われて来て、ああこれが神心じゃろうかと思わせて頂く様な心が、段々自分の心の中に育って行っておると言う事が、私は信心しておかげを受けて呉れよと言う事は、そう言う事の状態を目指して信心さして頂くという所に、おかげを受けて呉れよと言うおかげが受けられると思うですね。
   どうぞ。